2012年12月27日木曜日

楽譜は苦手やねん!!


昨日、信頼しているバイオリニストと昼飯喰いながらかなりの音量で口論になった。
そして楽器からはじまる作曲家、とコンピューターから始まる作曲家は違うんだなーと改めて認識した。
いわゆる、演奏家、あるいは演奏から入った作曲家とは、そもそも「楽譜」に対する認識がまるで違う。
自分は楽譜は全く読めない。意味を感じない。
そんなこというと音楽家としては大変…、でもない。
コンピューターでの作曲は、音自体での勝負。出してる音が何であるか、などあまり関係ないし意味もない。
今弾いた音はすぐに音になるし、それが瞬時に記録(録音)される仕組みだから、改めて楽譜を必要としない。
楽譜は、その音楽を再生させるための装置であり、演奏家は、その再生機の個性、だと思う。
同じCDでも、CDプレイヤーのメーカーが異なれば違う音で聞こえるかもしれないし、スピーカーが違えばやはり違う音に聞こえる。
演奏家もそういうもので、同じバッハの曲でも演奏家によってニュアンスそのものが変わってしまう。

コンピューターを相手にして音楽を作るということは、ある意味で「コンピューターにしかわからない楽譜を書いている」ってことであり、普通の楽譜に含まれる情報に比べてコンピューターの方が格段にその再現率が高い。よって、改めて楽譜にする、という事は全くしなくなる。(意味が無いから)

ところがそれを、自分以外の演奏家に演奏してもらおうと思うと「翻訳」が必要になる。そしてその翻訳された後の出来上がった楽譜から読み取れる情報があまりにも少なくて、楽譜からだけではさっぱりその曲のイメージが湧かない。アクセント一つとっても、どのくらいアクセントなのか?の情報が3段階くらいしか表記できない。

だから、「音媒体」に頼ろうとする。CDを渡して「楽譜では伝わってないニュアンス」を音で伝えようとする。相手は演奏家だから耳はいいはずだ。一度聞けばだいたい分かってくれる。そう思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
楽譜を渡すのと同時にCDを渡しているのだが、それの意味がよくわからないらしい。
そして、二言目には「あれ、これコード書いてないよ?」と言われる。

そんなもん、CDがあるんだからさ、聞きゃわかるだろうよ演奏家なんだし!!
と思うわけなのだが、そもそも聞かないみたいだ。
演奏家の言わせれば、アドリブを吹くのにコードが書いてないなんてのは、出来ないに等しい、という。音があるのになんで? 音聞いてわかんないの?とか思うのは多分世界が違うのだろう…。

パソコンで音楽を作る、ということはどこまでいっても理系脳なので、じゃ、コード書いてくれと言われて、散々に悩みまくってコードを書いて渡すと「あれ、これじゃ吹けないよ」と言われる。
コードがとにかく複雑過ぎて流れがわからないと言われる。

書けっつーから書いたんだよ。それも正確に。それこそ一拍単位で丁寧にコードを拾っていったのに、複雑過ぎる?? だってそういうように弾いてるんだものそれを書いてるのになんでそれじゃ弾けないの?

…といつも思っていた。
だからコード表記は極めて苦手で(というより、OKを貰った事が無い)いつも他人任せ。
結局コードというのは「演奏家の都合」で記すものであって、「作曲家の意向」を反映させるためにあるものでは無いという結論に昨日やっと達して納得した。

実際、演奏家が演奏においてやらなきゃならないことはたくさん有る。アドリブなんてあった日には五感と研ぎすましてコードとリズムと対話しながら個性を打ち出さなくてはならない。
そんな、極端にCPU負担(脳のこと)が激しいタスクをこなすためには、複雑なコード表記は邪魔にしかならない。楽譜を見ただけで脳内で「コードのながれ」がイメージできなければならないからだ。
演奏家にとってイメージできるコードの限界はセブンスまで。
いきなり「CmM7-13」とか書かれてもさっぱりわからないわけだ…

全てのトラックを全部作るコンピューター打ち込みの音楽家の作曲手法において
「ざっくばらんで適当に」は命取りになる。全トラックに細心の注意を払って作り込んで行くのだ。音がぶつからないか? 無駄な音は無いか? 音の長さはそれでいいか? 強さは? 

「てきとーに書けばいいんだよコードなんて」と、テキトーにやるとダメだしを食らうんじゃどうしたらいいのさと思っていたし、今も思う。
書いてあるコードと実際の音が違う、と文句を言われることも多々有るが、その度に凹むし…、
鍵盤で弾いて「じゃ、この音はなんてコードなの??」って聴くと大体は
「…まー、Cって書いとけばいいんじゃない?」」って言われる。
じゃ、いいんじゃねーか!! Cって書いてあって正しいんじゃねーか!!


思えば私は、楽譜を読むのが極めて苦手だった。音楽なのだから音を聞けば良い。楽譜を見るよりもピアノの先生に「一度弾いて聞かせてくれ」という事が多かった…、多かったじゃない、そうじゃないと弾けなかった。

別に楽譜を見るのが嫌いなわけではないけども、そこから何も伝わってこない。無機質でデジタルなただの数学的な設計図に見える。そして、その設計図から読み取れるのは「数学的に弾く」という指示だと受け取ってしまう。
テンポが120だったら、確実に120で無ければ作曲者の意向を台無しにしてしまう。アンダンテ、とかモデラート、とかいう表記は、「…ま、そこはそれ、あなた次第」というニュアンスで余計にややこしい。なんで? なんで曖昧なの?
こんな風に弾いて欲しい、というこだわりは、この作曲家にはないの?
…と、本気でピアノの先生にぶちまけたこともある。

「そんなことは楽譜に書いてない」と言いたくなるシーンが吹奏楽で多々あった。それは演奏家としてどれだけそこから汲み取るか、という話なのだろう。打ち込みではそれすらもデータ化する。抑揚やゆらぎもデータ化する。

そういう意味では、コンピューターミュージック演奏家、なのだから、そのメロディに対してどれだけ抑揚を付けて行けばいいか、という部分では瞬時に汲み取るし、打ち込める。
それを、演奏家は楽譜から読み取って、汲み取って演奏する、ということだ。

達した結論としては、私はハナっから演奏家を信頼していない、ということだろう。
打ち込んだ方が早い、というニュアンスは未だに抜けない。
ただ、一流の人達というのはやはり別で、つたない未完成な楽譜からでもちゃんとニュアンスを読み取って、楽譜以上、イメージ以上のパフォーマンスをしてくれる。
結局、演奏家の腕にも寄るのだ。

コードという概念が無いクラシック
その意味が痛い程良く分かった。楽譜の表記とは全て「作曲家の意向を演奏家に伝えるためのもの」であるという認識を改めれば良い。
コードだけは「演奏家の都合」の表記なのだ。そんな当たり前と一笑される事をやっと理解した。
そうとわかれば…、私も演奏家として、自分の曲を都合良くコードを書いて行けば良い。
正しいか間違いか、ではなく、それで流れが読めるかどうか、なのだろう。

コンピューターがあったからこそ作曲家を目指した、という人種は
当たり前だけど、私よりちょっと上の世代(40代くらいまで)が限界で
今までの作曲家の理論は通用しない部分は多々有る。
ピアノロールが「一般的な楽譜」になってくれないだろうか…
200年くらい…かかるのかもしれない。

作曲家と演奏家の違いもあるだろう。
別に、「ここはこう弾いて欲しい!」と拘っているつもりはない。好きにやってくれればいい、と逆に思っているのだ。
アーティキュレーションが書いてない、と文句を言われる事が有るが、そのくらい自分でディレクションして欲しいものだ。書いてないなら自分でこう吹いちゃえ! というのが真の演奏家じゃないかね? 私はそう思う。
間違ってごめんなさい、ともよく言われるが、私はそんなこと気にした事もない。
逆に、打ち込みならその「間違い」を意図的に生みだすために手間がかかるのに、人間はいともあっさりとヒューマンノイズを生み出してくれる。生演奏とは「間違うリスク」すらも音楽表現なのだ。音を間違う、それは素晴らしい表現だ。機械には絶対に出来ない。

演奏家も作曲家も、考えてることがあべこべなのだ、と思った。
演奏家は作曲家を誤解し、作曲家は演奏家を誤解していることが多々あると思う。
特に私のように、コンピューター相手での音楽活動 しか してこなかった人間にとって
正確な演奏などにほとんど価値を感じないのだ。
そこの所を演奏家に伝えないといけない。

「楽譜に書いてあることは殆ど意味がありません。自分で考えて吹いて下さい」

それは、演奏家にとって酷だろうか?
でも、それが出来ないなら…、打ち込みの方がいい。

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