2012年3月15日木曜日

デマだった…だと…??

人間は、私が想定しているよりも、温かい生きものらしい。

2012年3月14日水曜日

被災地の難しい話

http://www.news-postseven.com/archives/20120313_94151.html

やっとこの問題が露呈した、という感想。

これに対して、被災者側が冷静に判断しなくてはならないと思う。


まず、東北地方の人は、都会から来た人たちに、地場産の野菜をあげたがる。お土産を持たせることは、感謝の気持ちとして当たり前の行為と思っている。

実際問題、「放射能が怖くて食べたく無い」といって捨てる人がどのくらいいるだろうか? 私はあまり居ないんじゃないかと思う。どちらかというと、「野菜をそのままもらっても、普段調理しない」とか、「お菓子はたくさんあるし、福島でもらったお土産を誰かに譲るわけにもいかないし…、食べないなぁ…」とかいう理由であろう。

私自身、両親から受けとったものを、結局腐らせてしまう、ということはよくある。それでも、帰りの道中に捨てて行くなんてことはしないが、例えば、大根一本を二人で住む家庭で食べ切るのには1週間かかる。それが、箱で、じゃがいも、にんじん、白菜、キャベツ…といろいろ貰うのだ。これでは、冷蔵庫に眠っている食材を消費する前に腐ってしまう。
マンション暮らしは、貯蔵する場所もない。冷蔵庫は常に、食べかけのものでいっぱいだ。これでは「捨てて行く」という発想になってもおかしくはない。

私はこう思う。もらったものを捨てるのはもらった者の自由だ。
この話の一番の問題点は、心理的、感情的な問題ではない。

ゴミの処理能力が著しく低下している被災地に、ゴミを捨てて行く行為そのもが、非常識だ。

ボランティアで来る人、都会で暮らす家族、そのあたりが捨てていっているんだろう?
わざわざ観光で来てお土産を買った人が捨てて行くとは思えないから。
ボランティアで来ている人が、被災地のSAにものを捨てて行くなんて、なんという偽善者であろうか?
家族が仮設住宅に住んでいる私は、仮設で親が出す食べ物を食べることすら抵抗があった。炊き出しのものは仮設に住む人たちのためのものだ。部外者が食べるべきではない。
ゴミもそうだ。現地にゴミを捨てるなんてとんでもないことだ。
そこまで考えた上でのボランティアであるべきだと思う。

ここまで考えた上で、初めて感情論が出るだろう。自分たちが感謝の気持ちであげたものを、ゴミとして処理しなくてはならない現地の人の気持ちを考えたことはあるか?
捨てるなら、家に持ち帰って、家庭ゴミで出して下さい。



支援は本当にありがたい。
でも、その支援行為の中には、「エゴ」の含有率も大変高いものもあるのです。

それに対して、すでに被災者は敏感で人が集まりません。
「来るなと言われるまで続けますよ」と笑顔で言っている某食品加工会社さんとか、いますが…
「来るな」なんて台詞を被災者に言わせるまでやるつもりでしょうか?
「腐るのはもったいない」という理由だけで、一つの食品を食べ続けなければならない辛さ。
そして、その食品があるが故に、せっかく再開した地元のスーパーで物が売れないという事実。
それは、「エゴ」ではありませんか?
そんな気がしてなりません。

今一番ありがたい支援は「心のケア」
笑顔を振りまいて、みんなで炊き出しの焼きそばを食べたり
みんなで寄り添って美しい歌を聞いたり
・・・そう
「みんなで」が大事です。
新地・小川仮設住宅地は大変恵まれていると思います。

被災地に「ボランティア」に来る人は数多いですが
被災地に「遊びにくる」人は少ない。というか、いない。
遊びにきてくれてありがとう。
もっと、遊びに来て下さい。

そして、仮設住宅に住む被災者も、自覚しなければならない事があります。
「持産のものをあげる」という行為の危険さ。
そして、それを断れない、貰う側の複雑さ。

「数値的には大丈夫」
そういう問題じゃないんです。
貰った所で、どこで調理するのさ?
どこで食べるのさ?
そういうところまで、考えなきゃならないんです。

ものを人にあげることの難しさ。
そして、ものを人から受け取ることの難しさ。
それは「気持ちだから」という問題だけでは済まされない事。
今までは良かったですよ。置く場所があったから。
今までと同じ水準で物を送られたら、生活スペースが圧迫されるのです。
それを、断ることが出来ない、そういう立場にいることも忘れないで下さい。

地元では、野菜が売れなくて余っています。
それを、お金を出して地元の人が買う。それしか、経済を回す方法が無い。そこに、安全で安心で大量のよその野菜が来てしまうと、全てが回らなくなってしまうのです。

今後考えなくてはならないのは、「双方の価値観の統一」だと思います。

2012年3月11日日曜日

今日で一年。いろんなことがあったし、いろんなことを考えた。
自分も実家が消失。両親は仮設住宅に住んでいる。
それだけの被害を受けて、親類が誰一人死ななかった事を幸運に思う。
東北に住んでいて、震災は常に「他人事」ではあり得ない。
風化などするはずもないし、一生背負って行く問題だと思う。

ただ、一つだけ今日をもって決意したことは、後悔しない生き方を心がけようということ。
いつまた災害が起きて、尊い人命が失われるかもしれない。財産が失われるかもしれない。
確かにそうだが、それを恐れて生きていても意味がない。

「隕石が落ちて人類が滅ぶかもしれない」
「瓦が落ちてきて当たって死ぬかもしれない」

確率的には、同じようなものだと思う。
もともと、うちの両親も「後悔しない生き方」を私に教えてきた。
現実的に死んだとしたら、冷静でいられるかどうかはわからない。
でも、それを恐れながら生きるなんて、自分には出来ない。

人間はいつかは死ぬ。それが早いか遅いかだけの問題。
ならば、日々後悔しない生き方を、自分に素直な生き方をしようと思った。

東北でも、そして関東でも、大規模震災の可能性は残っている。

だからこそ、人間は未来があると信じて疑わない生き方をしていかなきゃならないんだと思う。

腐ってたってしょうがないんだ。

まだ、乗り越えられない人もたくさんいると思う。
不安で、怖くてたまらない人もいると思う。

自分は、不安な時にこそ、大切な人に笑顔を見せられる人間でありたいと思う。

2012年3月6日火曜日

久々に、MIDIデータ制作の仕事です。

大正琴の演奏用のMIDIデータ制作ですが、年に数本やります。
その度に、Roland SC8850にお世話になります。

最近の音楽制作では、やらないような作業をしなきゃならないわけですが
これが案外懐かしいのと同時に新鮮で、つい拘ってしまいます。

耳コピするわけですが、MIDIデータでの提出なので、いろいろと気を使います。
まず、音を選べません。出来るだけ既存のGM企画上での音作りをしなければなりません。

割り切ってしまえば、それほど難しくも無いのですが
「それっぽく聞こえなきゃならない」という、なんともむずかしー作業になります。

これも、数年前のカラオケ全盛期には、「当たり前」として君臨していた技術で
1キロバイトの戦いです。無駄は許されなかった…。

それを考えると、今の音楽制作は楽になりましたね。

その分、選択肢が増えて、やる事が一気に増えてしまったため
制作スピードが落ちました。

昔なんぞは、30曲くらいなら、平気で一週間で作っていたのに
今は一週間で懸命に頑張っても5曲くらいが限度。
そもそも、ミキシングと作曲に同じくらいの時間がかかってしまうものだから
作業効率は2分の1。

選択肢が無い、という制作環境の中での方が
より音楽に集中できる、というか
単に、手を広げ過ぎちゃうと、あれもこれもできて個人の許容範囲を越える、というか
とにかく、

ピアノの音は、この音

とかいう方が、やりやすいのですよね。

もちろん、そればっかりだと、可能性を狭めてしまうという事にもなりかねないので
バランスが重要なんですが…