2018年1月28日日曜日

サビだけの音楽

生徒の一人に中学生の子がいるのですが
この子が実によく出来た子です。
叔母さんがイギリス、スコットランドに住んでいるらしく
毎年にように遊びに行くという影響なのか
ずば抜けた視野の広さを持っていて感心しています。

その子が言うには
「最近の若い子(自分で言うw)は、過程をすっ飛ばす」
と、嘆いている。
出来上がっているものを見たりいじったりするのは出来ても
作る過程というか、工程というかはめんど臭いだけで無駄だと思っている。
音楽も、イントロがあって、Aメロがあって、展開があってサビがあるから盛り上がるし
盛り上がるためのボルテージを徐々に高めて行く過程があっての最高点なのに
サビしか聞かない、とか、動画とか見てても飛ばして見たいところだけ見るとか
俺に言わせれば、馬鹿じゃ無いの?って思う、と
先生はどう思います?

いやーー、出来たお子さんです。親御さんがとても立派な教育をなされているようです。

様式美、という概念があります。
何十年も、何百年もかけて人類が積み上げてきた美意識があります。
形式ばったもの、というものがあります。
それは、その時代時代によって、その形が最も適していると
その時々の人々が選んできた「結晶」です。
なので、それに抗う、あるいは変化させるというのは
相当のセンスと覚悟が必要となります。

私たちはまず、その形式に対して、なぜそういう形なのか、という意味を理解し
その上で、現代に適応した姿を模索するべきです。

中華料理店で酢豚を注文し
「酢豚、野菜抜きで」って言ったらそれはもはや酢豚ではありません。
酢豚の豚肉だけをたべてえ、後は残したり
ヴィッフェタイプで、肉だけ取っていったりする行為は
別に、悪いことでは無いでしょう。
しかし、社会的に美しいでしょうか?
どうにも、自由意志による決定、とは割り切れない違和感を感じます。

その違和感は「形式に囚われている」というのでしょうか?
既成概念、でしょうか?
何故そこに、野菜が入っているか、パイナップルが入っているか
その意味を、わかっていないだけでは無いでしょうか?
その意味を知った時、1つの形を理解でき、全体像を捉えることができるのではないでしょうか?
長年かけて作られてきた形式には、確かに現代に適応できていない形もあります。
しかしそれも、形式を知った上で、適応させて行くべきではないでしょうか?

形式を知る事は、大人になる事です。
物事の意味を理解するという事です。

日本の音楽が何故、イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ、があるのか。そして何故最近は大サビと呼ばれる部分があるのか。
そこに「何故そうなのか」という疑問に対する答えを準備しないと、作る側も自信を持って作れませんし、聞く側にもそれを伝えるこちはできません。

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